風沼 hybrid ってこのこと?

 風さんのカバーを聴いて、本歌を聞くために洋楽を聞き続けている。昔むかしに聞いていたHotel California がこんな歌詞だったのかと驚いたり、テイラー・スイフトが人気があるのに納得したり、ビリー・アイリッシュは今ふう過ぎ?とか、いまさらながら楽しいです。洋楽のいいところは、集中して聞かない限り歌詞が入ってこないところ。ただただメロディーや声が心地よく響くかどうかで聞き続けられる。邦楽の場合は歌詞は勿論、思い出とか今の心情とか、ウタとかかわる諸々が多すぎて、単純に楽しめない。

 ところが風さんの歌は、歌詞はハッキリ聞こえるし、メロディーも素晴らしいし、何度聴いてもウタとして純粋に入ってくる。本人オリジナルは当然、カバーも(この場合邦楽の方がわかりやすい)そうなのだ。昭和歌謡のように思い出が色々蘇って来そうな曲でも、純粋に歌として聴ける。そりゃ、風さんが忘れてる歌詞さえ思い出せるけど、それが曲を邪魔しない。曲のメロディーとか音楽は洋楽のように、歌詞は(日本語なので当然)リアルにわかる。なのに洋楽を聞いているかのように雑味が無く、かつ中味がストレートに伝わる。まさにハイブリッド。だから何時間でも何回でも聴き続けられるのだ。

 風さんのハイブリッドを考えていたら、だらけだった。歌は洋楽と邦楽。元が女性の歌と男性の歌、Twitter に流れてきたラジオのリンクのお陰で Teenage Dream のカバーを聴けた。本歌を聴きにいったらケイティ・ペリー。Circle と似た感じだったので男性の歌かと思ってた。風さんが歌うとホントに違和感がないので、確かめるまでわからない。自分の曲は本人と Yaffle さんの、つまりピアノとシャレたアレンジのハイブリッド。キラキラ王子様(白と赤バージョンあり)と眼鏡にボサボサ髪に着倒したグッズT。フワフワ優しい顔とキッとした冷酷にさえ見える顔(節分の鬼)。鬼の顔なら写真誌のカメラマンも後退りして行きそう。ファッションには興味無いと言いつつ、ちゃんと選べる上に着こなせちゃうこと。日本語が下手クソと言いながら、正しい言葉を選び話せて、英語にまでしちゃうこと。ギャル語が好きで本は読まないのに、文学的な歌詞。一々違う一面を見せてくるような気がする。

 ねそべり紅白は最初の1曲以外邦楽のカバーだったので、それが良くわかった。Spotify でカバー曲のプレイリストを色々作って元曲を聴いているのだが、邦楽は飽きてしまうので途中になっていた。それは古いピアノカバーだけのまで入れてしまっていたからだと気が付き、live streaming だけのリストを作ってみた。風さんの歌がある曲なら聴ける!楽しい!こんなに違うなんて。どんだけ風中毒なんだと思うけど、風さんの声がかぶさるように聴こえると(フルならなお良いが)、かなり長いリストになったが聴き続けられる。ここでは、元曲と風さんの歌声のハイブリッドになったわけだ。

 

 他にも色々ハイブリッドなことはありそうだが、二面性とかむしろ多面性はアーティスト芸術家にとって当然ともいえることだろう。風さんが特別なのは多面性より多重性だということだと思う。本人にとって、この時今どちらがふさわしいかが重要なだけで、自分がこうなりたいと考えているわけではない。どちらも(何でも)等価値で持っていて、それを自在に取り出して見せることができてしまう。そして彼にとっては等価値の諸々が他者には極上の諸々なので、ファン達はもうメロメロで、風族の民としてついて行くしかないのだ。最後はまたも妄想でしょうか。